私が一人旅をする理由

Love is art, struggle is beauty.

 

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0.ごあいさつ

 

この記事を偶然開いてしまったそこのあなた!こんにちは!

 

長野大学温泉同好会・部長の小川です。

まだブラウザバックしないでください!

 

さて......

 

突然ですが、皆さんは「一人旅」をしますか?

 

ご結婚されている方からすれば、一人旅をするような機会は...

なかなか、無いですよね。

 

反対に、私のような

パートナーもおらず、この先出来る可能性が天文学的に低い確率(1×10^-14%)の人間」であれば、むしろ旅行行動のうちほとんどが一人旅、という方もおられると思います。

 

好きで一人旅をする人もいれば、様々な理由から一人になってしまう場合もあるでしょう。さて、

 

 

先に断っておきます。私は、一人旅が好きではありません。

 

えぇ...(困惑)

 

ですが、皆さんには一人旅をして欲しいのです。たまには。

 

家庭に属している方や、お友達がいっぱ~い!の人からすれば、

 

一緒に行く相手には困らないのに、なんで一人でいくの?

と思うかもしれません。

 

そう思う人こそ、このエッセイを読んで欲しいのです。

 

このエッセイでは、私が過去に行ってきた一人旅の経験やそこから得た知見、そして私なりの一人旅の目的を通して、あなたの人生を少しでも善いものにすることに3mmくらい役立つ情報が載っています。

 

残念ながら、普通に一人旅について調べるのであれば、他にいくらでも有用なサイト、個人ブログがありますので、そちらをご覧ください。

 

この文章は、そのようなものとはなるべく差別化を図るべく

「私自身」の「一人旅」の考え方について語ったものであり

世間一般のものと重なる所があるとは限りません。

正直ほとんど無いと思います。

 

文章中に、「私」の話が多いのも、そのためです。

【注意】めちゃくちゃ長い!!!(約21000字)

 

暇な時に、シャインマスカットでも摘まみながら読んでくださいね。

そして、けっこう暗い内容なので、そういう気分の時に読んだ方が

良いと思います。

 

間違っても家族の旅行先とか、ディズニーランドとかでは読まないでくださいね。

 

文体は、結構カタいです。普段のホームページに書いている温泉レポの150倍くらいカタいです。その落差には千賀のおばけフォークを受ける甲斐選手もビックリすること間違いありません。

 

部屋の電気を消し、

布団の中で、スマホを夜間モードにして読んでください。

では、どうぞ!!はじまり、はじまり~~!

1.私が一人旅をする理由

 あなたは、なんのために一人旅をするのだろうか?

 

友達とは絶対に行けないような、自分くらいしか興味を持たないモノを目にするためか?一人で、静かな旅をすることがそもそも好きだからか?それとも、残念なことに、友達が居なかったりして一人にならざるを得なかったからか?

 

そして、あなたが一人旅をするとき、自宅の玄関で靴ひもを固く結び、立ち上がる時、あなたの胸を満たす心情はどのようなものであろうか?

 

未知なるものに対し興奮冷めやらぬ様子か?

喧騒から離れた土地での静寂を思い描いているだろうか?

無事に目的地に辿り着けるかどうかへの、一抹の不安だろうか?

 

では、私の場合は...

 

 

「つらい」

 

私が一人旅に行く時は、

いっつもこう思っている。

 

尤も、こんな3文字で表せるような、シンプルな心境では決してないのだけれど。

 

終わった恋の残滓、羨望、不安、哀愁、生きることの難しさ、疎外感、悔恨だとか、言語化していちいち記号を与えるのが不適切な感情たちを無理くりまとめると、結局はこの「つらい」に落ち着いてしまう。

 

なんとなく、されど自らが自覚し得ない明確な理由で、つらいのだ。

 

だが、本当に悲しく、どうしようもないことなのだが、

この「つらさ」というのは、旅に出たからと言って

無くなるわけではない。

 

世の中そんなにうまく行くわけがないのだ。

 

道中、素敵な異性と偶然出会ったりしないし、夢を叶えてくれるゾウにも逢えない。隠れた名店なんて見つからないし、ガイドブックに載っていない素晴らしい温泉なんてどこにもない。

 

旅から帰ればいつもの日常に引き戻されるし、

結局のところは何も解決しない。

 

だから、一人旅に出る時、私はこの「つらさ」や「現実」から逃げたり、何かしらの解決を求めているわけでは決してない。ましてや思考を放棄するためでもない。(温泉めぐりが目的だったら、友達か後輩を連れて行く。一人は嫌いだ。)

 

では、私にとっての一人旅の目的とは何か?

 

答えはただひとつ、ドン引きしないでほしいのだけれど、

 

つらさと正面から向き合うこと

 

きっと、これだ。この表現をひねり出すのに少し悩んで、他の言い方にも思案を巡らしたが、おそらくこの表現が正しいはずだ。

2.沼に沈む

深夜1時のパーキングエリア、誰もいないただ自販機だけの空間。小腹を満たせるようなホットスナックの自販機を見つけてラッキー!そんなことはない。そんなうまくいくわけないよ。
深夜1時のパーキングエリア、誰もいないただ自販機だけの空間。小腹を満たせるようなホットスナックの自販機を見つけてラッキー!そんなことはない。そんなうまくいくわけないよ。

「つらさと正面から向き合う」とは、どういうことか。

それは、「沼に沈む」ことだ。

 

......言い換えているのに、余計抽象的な表現になっている。いや、こんなのは言い換えとは呼ばず、「ライター講座」なるものを開いてる人には噴飯ものであろう。

 

※一般的には、「沼に沈む/浸かる」という表現は「自分の趣味にどっぷりはまる」ことを意味するんだと思う。初心者からマニアへ一歩踏み出す時に使われる、好意的な表現だったはずだ。

 

でも、確かに「沈む」のである。他に見合う言葉を私は知らない。 

 

 

さて、「つらさ、悩みの沼」なんていうのは、沈まない方が、

れを避けて通りすぎる方が、人生の幸福度を高めるし、楽である。

 

多くの人はそう言うだろう。

なにせ現に世の中には、それを叶えるような、すなわち悩みを

忘れさせる強大な力を持つような

娯楽・芸術・文章が数多く存在している。たとえば…… 

 

――「悩んだって仕方ないよ」「時間が経てば分かる」

 

私の好きな宇多田ヒカルの歌「time will tell」の一節。

 

ああ、その通りだ。悩んだってなにも解決しない。

いつまでお前はウジウジしているのか?こんなことしてないで、

早くゼミの研究を進め、インターンシップをやるのだ。

 

「悩んでいることと、考えていることは別だ。悩んでいる状態というのは、自分がショックを受けている様子を誰かに示すことで救済を受けようとしている、単なるパフォーマンスに過ぎない。」

 

本の名前は忘れたが、ある著者が言っていた。

なるほど!それもそうだ。

 

私は、ただ誰かに「かわいそうに」「大変だね」

「あなたなら大丈夫ですよ!」とか、

棘の無く丸い、優しい言葉をかけてほしいだけなのかもしれない!

 

 

しかし、この2つあるいずれの言葉・音楽、そして世に存在する

あらゆる良質で質素で、荘厳たる温泉であろうとも、

私を改心させ、悩みを忘れさせることは、残念ながら無いのである。

悩むことを止めたり、放っておいたりするというのは、

私たちが好むと好まざるとに拘わらず

健全な精神状態の保全のために行われる、無意識なうちの営みである。

 

その時私たちの心の中には、小さな部屋が生成される。

その部屋の中に、悩みが所狭しと、乱暴に詰め込まれる。

部屋の扉には鍵穴が付いており、扉が閉まると同時に鍵が掛けられる。

 

ところが、厄介なことに、この扉の強度は人によってまちまちだ。

 

人によっては、扉が頑強で滅多なことでは壊れない人もいるだろう。

中にはすぐに壊れてしまう人だっている。

 

私の場合は後者で、残念なことに、扉の強度は心許ない。

レオパレスの界壁の如し。

 

例えば、相手にとって私が、私じゃなくてもいいんじゃないか?

と思う時だ。相手はそう思っていないのかもしれないけれど、

仮に私ではない誰かが居たとして、その人でも同じ役割を、

或いは、それ以上の役割を果たし得るのではないか。

 

そして悲しくも、相手もそれに満足してしまうのではないか。

 

現代小説における、サラリーマンが職場を離れることを決心する際の

描写としてよく見られるものと似ている。

 

自分が病気で倒れても、職場は何の欠落も残さず、それを他の誰かが

少しの調整で埋め合わせ、何事も無かったかのように会社の血液が

循環していくさまを見た時......

 

その者が持つ、自身の矮小感と似たような疑念。

 

そんなことを考えた時に、私の部屋の扉にはバリバリと亀裂が入る。

音を立てて壊れてしまう。

 

そうすると、どうなるか?

 

その部屋から飛び出した「悩み」は、スレンダーマンみたく長い腕を

伸ばして私の左足首を掴もうとする。

私を、私の中の深い沼へと引きずり込もうと企てる。

 

 

だが私は、これに決して抵抗しない。

沼に沈むことを、良しとして受け入れる。

 

私の中の沼へ沈むことを選ぶ。

漠然とした、正体の分からない、悩みの沼へ。

 

沼から伸びた長い腕に掴まれるのを待たずに、沼の方向へと踵を返す。それを見て驚いた腕が、私を引きずり込む必要がないことを確認して

自身を引っ込めた時、私は片方の足を弱々しく震わせ、爪先を沼の表面に落とす。土踏まずで泥を押し込めて、沼の中に足を沈めていく。

要するに私は、思いっきり悩むために旅をする。

 

自らが抱えるつらさと正面から向き合う。

目を逸らさない。

 

冒頭で、「私は一人旅が好きではない」とやたらめったら挑戦的なことを述べたが、察しの良い方にはその理由が分かっただろう。

 

私が一人旅をするのは、メンタルが落ち込んでいる、ヘラっている時なのだ。だから、私としては、なるべく一人旅をしない方が

精神的に望ましいはずだ。

 

だって、つらさと正面から向き合うだなんて。

どう考えても、もっとつらくなるだけじゃあないか。

ましてや、それを旅先で行うだなんて!

 

悩みはなるべく閉じ込めておいたほうが、忘れ去ったほうが、

人生の幸福度を高めるだろうし、楽になれるじゃあないか!

 

宇多田ヒカルが言うように、「悩んだって仕方ない」のだから!

明日は明日の風が吹くのだから!

 

ただ、そのようにして、「悩んだって仕方ない」というように、

悩むことを放棄するようなことは、私はしたくない。

 

明日は明日の風が吹くというのは、私からすれば間違いだ。

明日は、今日という基準があるからこそ存在することを許されるの

あって、その影響を免れることはない。

 

自分の悩みを放っておくだとか、捨て去るというような

いわば「事なかれ主義」を敷くことは、私が最も嫌うことだ。

 

確かにこの「事なかれ主義」は、現代日本において、もっとも自分に

精神的苦痛を与えず、かつ周囲の短期的な利益を最大化させるものだ。

 

自分が所属する組織を安定させておくために、

多くの人が、最初は「今回は仕方がないのだ」と割り切る。

しかし、時がたつにつれ元からそれが当たり前であったかのように、

疑いを持たずして、そう振舞うようになってしまうのだ。

いや、そうさせられるのだ。

でも、わたしの、あなたの心の中にある悩みにまで

そんなことをしたら、いったいどうなってしまうのだろうか?

 

なんだか、わたしがわたしであることが

あなたがあなたであることが

足元から崩れ去ってしまうのではないだろうか?

 

なぜなら、あなたの悩みは、あなただけのものであるからだ。

 

そして、悩みは、他の何よりも、あなたのありのままを映す鏡だ。

それと向き合わないということは、すなわち、あなたが、あなた自身から目を逸らし、自らが持つ最たるアイデンティティともいえるものを、自分から手放す行為であるからだ。

 

わたしは、そんなものが、人生の幸福度を高めるだとか、楽にしてくれるとか言うようには、全く以って思わないのだ。

 

だからわたしは、

思いっきり悩むためにひとりで旅をする。

3. 今、ここからの逸脱

さて、長々と暗い文章を書いていると、

だんだん書いてるこっちの方がつらくなってくる。

 

 読んでいるあなたもきっとそうだろうから、ここからほんの少しだけ

明るい話題へ移っていくことにしよう。

 

「一人旅に出る」とはいえ、どうやって?という、方法論の話だ。

 

 

「一人旅のやり方なんて、人それぞれだ。決まった方法なんて存在しない。」

 

もしあなたが私に「どうやって一人旅をすればいいの?」という質問を投げかけたとして、私がこう答えた時は、黙って私の頭をひっぱたいてほしい。なんなら、私の部屋にゴキブリとアシダカグモを1:2の割合で放って、部屋から出られないように窓・ドアに朝青龍や曙、雷伝為末門のような稀代の名だたる力士たちを配置してくれてもかまわない。

 

私は、人から何かを相談された時、

「でも、それって人それぞれだからね~。」とは

絶対に言わないようにしている。

 

だって、そんなこと誰でも言えるじゃあないか。

 

自分なりに捻りだした回答をしないで、誰でも言えるような、つまり

相手を傷つけないような回答に逃げるようなことは、目の前の相手と

対話しているようで、母親に「晩ごはん何がいい?」と聞かれた時に「なんでもいい」と答えるのと同じくらいテキトーだ。

 

どうして、自分の意見を飲み込むことが相手の為になると思うのか?

 

むしろ、真剣に悩みを相談したのにそんな対応をされたら、私は傷つく。(悩みを打ち明ける相手はほんとうによく選ぶべきだ。)

 

だからここでも、私はあなたの疑問から逃げず、私なりの回答を提示したい。そもそも疑問に思っていなかったら悲しいけれど、おそらくここまで3000字以上を読んでくれたあなたであれば、少しは気になってくれたのではないか。

 

私は、今からあなただけに向き合って、タイマン勝負していく。

どうせこのサイトに複数人が同時にアクセスなんてしないだろうから、ゴングを鳴らす人は他に誰も居ない。私とあなたの心の中で、いっせーので鳴らそう。長い闘いになるだろうから、あなたの好きなタイミングで休憩してもらってもかまわない。

 

以下に記す方法論は、あくまでも「私なりの」である。仮に参考になる部分が少しでもあれば、記憶の片隅に留めておいて欲しいし、全くなかったら、噛み終わった味の無いガムと一緒にちり紙にくるんで捨てといて欲しい。ちなみに私は、ガムをちり紙にくるんで捨てるよりも、そのまま呑み込んじゃう派なんだけどね。

①行き先を決めよう

一人旅の目的地、どこへ行こうか?答えは案外簡単で、私が思うには、

「あなたが今いる場所ではないどこか」へ行けばよい。

 

は?疑問と向き合うとか言っといて

いきなり抽象的なことを言うなッ!

 

そう怒る気持ちも分かるが、実際そうなのだ。

 

今あなたが生きている場所、すなわち「今、ここ」から

「離れた」場所を選ぼう。

 

この「離れた」というのは、最近やたらと聞くようになってしまった「ディスタンス」、すなわち距離のことを言っているわけではない。単に、距離が遠ければよいということではない。

 

あなたが今いる場所の雰囲気や、周囲の人々との関係、しがらみ、風景、文化とかいったものから、離れた場所、ということだ。

 

例えば、私はネイティブ長野県民で、海を見た回数より山を見た回数が比喩では無く10000倍多い。海で初めてまともに泳いだのは去年の夏のことだ。(あまり思い出したい記憶ではないが。)

 

長野県は、どこもかしこも周囲は山に囲まれている。どこに行っても、山、山、山!たまに湖!高原!みたいな。こうなってくると、「海」に対する漠然とした憧れを常に抱くようになっていて、「暮らしの中に、あるいはすぐそばに、海がある」ような場所に行きたくなる。

それと、つらさと向き合うような一人旅をするときは、やはり静かな所に行きたい。普段から人が多い場所が苦手だとか、そういうわけではないが、落ち着いて自分と向き合いたい時に必要なのは、他人の声とかではなくて、自然から聞こえてくる音なのだ。

 

つまり、浜辺で感じるあの慣れない潮の香りと浜風、そして波が一定の周期で押し寄せる音。

 

というわけで、私が一人旅の目的地とするのは、いつの間にか

 

「海があるけど、人があんまり居ない浜辺」「生活の場と海が近い町」に落ち着いてしまう。

 

(温泉同好会の部長で、温泉はたしかに好きだが、こういう時に温泉を第一目的地にはぜったいしない。あくまでも、ついで、である。)

 

これは、どこにでもいるようないち大学生、すなわちクソガキの一例に過ぎない。

 

けれども、上の冗長な文章を一言でまとめると

 

「今、ここからの逸脱」ということになる。

 

もしあなたが一人旅をしたくなって、行き先を決めるときになったら、このフレーズを思い出してほしい。

 

「今、ここ」とは、まさしく今、あなたが居る場所を意味する。そして「逸脱」とは、デジタル大辞林によれば、「本筋や決められた枠から外れること」だ。

 

 

つまり「今、ここからの逸脱」は、今あなたがいる場所、そして属している共同体から外れる、離れるということを意味する。

このことは、少し穿ったような見方をすれば「逃げている」ように見えるのかもしれない。

 

でも、それは違う。なぜなら、先ほども言ったように、あなたが抱えている悩みはあなただけのものだからだ。他人に品定めされる必要もないし、そんな義理はない。誰からも奪われない。

 

その代わりに、一人旅に出たからといって、その悩みが解決されることは決してない。あなた以外の誰かが解決してくれることも、

残念ながら、ない。

 

逸脱が終わった時、すなわち一人旅が終わった時には、またその悩みとともにあなたが普段いる場所、共同体に帰ることになる。これは、逃げているとは言わないだろう。あくまでも、一時的に離れているだけなのだ。断じて、逃げではない。

 

 

あなたの心に出来た、小さい部屋の壊れた扉から飛び出してしまった悩みは、けっきょくあなたの中に居座り続ける。

だから、あなたが移動すれば、必然的に、悩みも一緒に憑いて回る。

 

「旅先では悩むことなんて忘れてパーッと楽しもうよ」?

 

そんなのは無理だ。

悩みを、あなたが生きている「今、ここ」に置いていくなんて

都合の良い事は絶対に出来ない。

だから、あなたの中にしかめ面して居座り続ける悩みを、連れ周すのだ。普段いる場所から、共同体から、離れた場所へ。

 

平たく言えば、環境を変える、ということだ。

 

そこで、悩みと、つらさと、正面から向き合う。

「今、ここからの逸脱」は、私という人間だけが逃げるという

意味合いの言葉などではない。

 

わたしの中にある悩みと一緒に、今、ここから、逸脱していくという

ことなのだ。これが出来るような場所を選んでみてほしい。

 

きっと、そこまで難しい決定ではないはずだ。あなたならば、すぐに見つけることができると、信じている。

 

他の誰も、私も、あなたの目的地を決定することは出来ない。

プレイヤーは、あなたしかいないのだから。

②どうやって行くか

残念ながら、世間は「ひとり」のあなたにそこまで優しくない。

 

 

一般的な旅館やホテルでは、一人泊が可能であっても特別に追加料金がかかることや、そもそも一人泊を受け付けていない場合もある。

 

車を所持していない方であれば、公共交通機関を駆使して、     目的地に行くしかない。しかも、目的地が地方であればあるほど   その難易度は比例して高まる。(単純に本数が少ないから)

 

仮に車を持っていても、一人の場合は誰も運転を代わってくれない。

アルコール飲料なんてもちろんご法度だ。片道何時間かかろうと、  助手席には運転免許を持つ知り合いは座っていない。        ただ、あなたのカーステレオやスマホから流れてくるラジオの音声、 好きな歌手の歌声と一緒に移動することになる。私の場合は、よく  福山雅治、あいみょん、宇多田ヒカルに阿部真央、King gnuと椎名林檎、高橋優とGoogleマップくん達と一緒に一人旅へ出掛ける。

 

ただ、彼ら、彼女らにどれだけ愛着を感じていようとも、

旅の人数にカウントすることは出来ない。

 

わたしはひとりで、あなたもひとりだ。

これは変えようのない事実だ。だけど、その世間の

見えなくても確かに存在する「ひとり」であることへの冷たさ

懐柔されず、せいいっぱい反抗してみよう。

 

世の中変えられないことだらけだ。

でも、きっとその反抗から得られるものは、あるはずだ。

 

「ひとり」のあなたに、優しく手を伸ばすようなものは、この世には少しだけ存在する。あまり目立たないけれど、確かにある。それを探してみてほしい。血眼になってでも。

まだまだ、世界は捨てたものじゃあない。

 

まだ、仕方ないと割り切るのには早い。

あなたはまだ、仕方ないと割り切れるほど世界のことを知らないし、

反対に、世界はまだあなたのことをそんなによく知らないはずだ。

 

そんなあなたに、私からささやかな知識のプレゼントをしよう。

 

例えば、あなたは車を持っておらず、まだ免許も持っていない、もしくはペーパードライバーで、レンタカーを借りて1人で長い距離を運転することに不安を覚えているとする。

 

こうなると、もう公共交通機関に頼るしかない。とはいえ、地方の公共交通機関、特に電車となると、移動距離に比例して運賃は結構高くなる。場合によっては、片道だけで2000円を超えてしまうこともある。そうなった場合、たじろいでしまうだろう。「いつまでもあると思うな親と金」とは、よく言ったものだ。

 

こうなった時に利用したいのが、「お得なきっぷ」だ。

『自分が行きたいエリア名+お得なきっぷ』でググってみると、案外ヒットする。通常運賃よりもはるかに低い金額で、1日全線乗り放題となるような切符が、鉄道各社から販売されているのだ。場合によっては、複数の鉄道・バス会社にまたがって使用可能なものもある。

 

何か分からないことがあったら、私が大好きな、うちの部員のO野かO田、そして茅野市在住の信愛なる友人に、私を介して相談してみてほしい。私はこの切符の存在を彼らに教えられたのだから。

 

こういった類の切符は安いので、初めての方にとっても手を出しやすいだろう。検討してみてほしい。

 

何よりも、「旅してる感」がスゴイのだ。

そのとき、あなたはきっと無敵になれる。

③どこに泊まるか

 さて、どうやって行くかについて、役立つかイマイチ判らないヒントを提示した後は、「宿泊先をどこにするか」という命題について答えなければなるまい。

 

これは、日帰りの場合であれば心配する必要はない(代わりに、帰りの電車の時間には敏感であることを迫られる)が、せっかくだから泊まりたいという人には重要な問題だろう。

 

 車を持っている方であれば、スマホで適当にググって「一人旅に優しい宿」とか検索すれば、それなりのものは出てくる。

ただ、よく「るるぶ」や「まっぷる」だとかで紹介されたり、検索すると上位にヒットするような宿というのは、市街地から離れていることが多い。徒歩で行くのはなかなかツラいような場所にあったりする。そのため、電車勢・バス勢にはキツいかもしれない。

 

それでもどうしても泊まりたい宿があるのであれば、何としても辿り着く手段を捻出するべきだろう。

 

しかし、大半の人はきっと、「どうしても泊まりたい宿なんてないし、それを探す気力もない」だろう。結局は駅に近いビジネスホテル、ビジネス民宿やホステル(ゲストハウス)、場合によってはネットカフェの個室という選択肢になってしまう。

 

そもそも、一人旅をするにしても経済的余裕がないという人も、きっとこうなる。

ただ、ここで私からひとつ言いたいことがある。

よく聞いて、いや読んでほしい。

 

それを残念がる必要は全くない。

「せっかくの旅なのに」なんて思わないで欲しい.

 

あなたが普段暮らしている部屋は、ビジネスホテルや民宿のような空間か?ネットカフェの個室のような、薄暗い部屋に煩い光を放つPCモニターと、やたらとタイプ音が響くキーボード、そして足を延ばして寝れたら幸運なくらい狭いあの空間だろうか?

 

否、そんなことはないだろう。少なくとも、この文章を読めるような環境に置かれているなら。そして今一度、先ほど述べた「今、ここからの逸脱」という言葉を思い出してほしい。

 

 

結局、一人泊を快く受け入れてくれるような心の広い宿、よく分からないがインスタ映え?しそうな綺麗な宿であっても、駅前の有名ホテルチェーンであっても、商売っ気が1ミリも感じられない民宿であっても。

 

そこに泊まる行為こそが、まさしく「今、ここからの逸脱」なのだ。

 

あなたは満足しないかもしれないが、不足の美という言葉もあるじゃあないか。私にとっては、むしろ、そっちのほうが合っている。

 

さて、あなたはどうする?

④何を持っていくか

これも、かなり大切な事前準備だ。以下、箇条書きで示す。

 

一人旅の時の「えんそくのしおり」にしてもらってもかまわない。

著作権は私に帰属するが、商用利用しない限りは全く問題ない。

そうならない可能性のほうが高いと思うが。

・本や漫画等の書籍

 

私にとって一人旅に一番欠かせないのが、本だ。

 

これがなかったら、一人旅の効力は半減する。

自分の悩みと関連するような本、影響を与えてくれそうな本を事前に数冊選んで、カバンに詰め込もう。

 

可能な限り、都市部の蔵書が多い大規模店舗で、数時間かけてじっくりと探すことが望ましい。無論、リュックが重すぎて旅先でヒモがちぎれない程度に数を抑えよう。

 

(この前は計8冊持って行ったが、結局しっかり読んだのは3冊だけだった。そして、1000円の安いリュックサックの紐がお釈迦になった。やってしまった。この習慣はなかなか治りそうにない。)

 

それと、いわゆる「るるぶ」「まっぷる」といったような旅行雑誌は、持っていく必要はほとんどない。自らと向き合おう。

・生活必需品

 

これは一人旅でも普通の旅行でもあまり変わらない。

コンタクトレンズの保存液やメガネ、ハンカチ、着替え、歯ブラシ(忘れがち)だとか。その他、快適な生命活動の維持に必要なモノ。今の時代、便利なことにこれらを忘れても現地で安価に調達できたりするが、スマホの充電器やカメラのバッテリーは高くつくから絶対に忘れてはいけない。何回も確認することだ。財布や身分証明書は言わずもがな。

 

旅先では、誰も、何もあなたを助けない。

お得なきっぷや安いホテル、あなたが持っていく本以外は、何も。

・イヤホン

 これは、必須ではないが、あった方がよいものだ。特に公共交通機関で移動する場合は、無いと少し残念になる。さすがに、公共の場で音楽をそのまま流すのはNGだ。

 

 バス旅で天気が優れず、予報通りの雨に降られた時、小林麻美の「雨音はショパンの調べ」を聴かずにはいられないし、山間地帯を走る電車に乗っている時、かつて存在していたであろう集落の跡や、トンネルを抜けた先の黄金色に眩しい水田を目視した時には、清浦夏実の「旅の途中」を聴けないだなんて、私には想像もつかないのである。

・記録媒体

自分が旅の途中に考えたことや、浮かんだフレーズ、見た風景などを保存するものだ。アナログだとメモ帳に筆記用具、ふせん。

 

デジタルだと、スマホ。もっとも、私はスマホで文字を打つことが苦手なためパソコンで文章を打つことが多いが、旅先にあんなに黒く重いデカ物を持っていくのはナンセンスだろう。

 

だから、丸善松本店で買ったやたら値段が高い青いメモ帳と、ツインリンクもてぎで買った1500円のボールペン1本だけを持っていくことにしている。このメモ帳に書き留めたことは、後々大いに役立つ。現に、この文章を書いている今がその時だ。

あんまりうるさいことは言わないから、ただ、メモ帳は持っていこう。

 

どれだけ良い言葉が浮かんでも、人は忘れてしまうものだ。

 

余裕がある人は、カメラなんかも持っていくといいかもしれない。結構な荷物になるが、私は毎回カメラを持って行って、首から重たそうにぶらさげている。

 

……と、だいたいこれぐらいだろうか。結局、一番大事なものは「本」であって、他のものはなくても旅先でどうにかなる。まぁ、旅先の地方都市にある大きめの本屋だったり、どこかの小さな古本屋だったり、そこらへんの潰れそうなコンビニで現地調達するのも、それはそれで素敵だと思う。良い出会いがあるかもしれない。

④何をすべきか

さて、下準備が終わったら、やっと一人旅へ出発である。

 

旅先で何をしようが個人の自由で、それこそ人それぞれなのだけれど、とにかくここでも自分なりの回答を2つほど提示したいと思う。

・夕暮れ時の浜辺で読書(16時~19)

これは、私が9月上旬に行った、いや、行ってしまったと呼ぶべき、

 

新潟県への23日の一人旅からの例だ。

 

 私からすれば、海水浴場や浜辺なんていうのは、

「泳ぐための場所」では断じてない。

 

「海に来たのに泳がないなんてもったいない」?

 

いや、何を言うか。

 

せっかくの海なのに、泳ぐなんてもってのほかだ!

ああ、もったいない!!

......はて、何を言っているのかさっぱり分からないと思うが、少し待って欲しい。

さてここで、下の文章を読んで、私が目撃した風景を想像してみよう。

 

ちゃんと答え合わせ用の写真はあるから、安心してほしい。

では、スタート!

 

 

―――ひとりで、浜辺に立っている。

 

かれこれ2年近く履いているスニーカーは、砂浜を歩くには不都合だ。泳がないのだからビーチサンダルを持ってきているはずもない。

 

しかも、敷物や椅子なんていうものはもちろん持ってきていないので、仕方なく足元の小石や木の破片を取り払ってから、砂の上に直接座り、背負っていたリュックサックを無造作に横に据える。

 

臀部に感じる砂の感触になんとなく好感を抱きつつも、

リュックから取り出した数冊の本を、まだ明るいうちに読んでしまおうと、数冊取り出した。それから、自販機で買った甘すぎる缶コーヒーで水分補給し一息ついて、ぱらぱらと本のページを捲っていった。

 

 

―――しばらくたったころだろうか、ふと左の太ももに短い振動を感じると、相変わらず旅先の様子をしつこく聞いてくる父親からのLINEメッセージが届いている。

 

「今どこにいるの」

 

 

しまった!旅先では携帯電話の通知は全て切っておくべきだった!

 

 

うんざりしつつも、自分がいる場所の写真を送って父親に報告をすると、どうやらそれに満足したらしく、「いいね~」とだけ返信が来た。それを確認したらすぐに通知を切ったのだった。

そのときふと画面左上を見ると、いまは1732分らしい。

 

ずいぶんと長い時間本を読んでいたようだ。

 

そのとき、自分が1時間半以上それらに意識を集中させていたことに気づき、ふと手元のスマホや本から目を離し、首を正面に据えてみたのであった。

 

 

 目の前に、西日に照らされた日本海が、一定の周期で、されど一度も同じ波形を作らずに、浜辺の砂型をかき消していく。陽はどんどん傾いていて、遠くに見える佐渡島の向こうへとその身を隠す準備を始める。それを号令のようにして、サンセットのその瞬間、すなわち太陽がその日、最も明るく、紅潮した輝きを見せるその場面を際立たせるために、辺り一面の明度が下がっていく。

 

その瞬間、周りには他に誰もおらず、ただわたしだけがそこにいる。

 

横に据え置いたリュックと、ジッパーの間から顔をのぞかせる本、それを取り巻く存在だけが、そこにはある。

お疲れ様。では、答え合わせをしてみよう。

ほら!砂浜というのは、海というのは、決して泳ぐような場所ではないだろう!

 

海は、あなたが感傷に浸るためにそこに存在しているのだ!

 

海についたら、本を読もう。そして、自らの中にあるつらさ、悩みと、向き合おう。本の助けを借りながら。

 

これが、わたしが一人旅において出来る、

わたしに対する最大限の施しだった。

 

その日は最高気温が37.6℃で、日中はうだるような、アスファルトで

目玉焼きくらいなら確実に焼けたであろう熱さだった。

しかし、夕暮れ時になれば気温は一気に下降する。

21℃~24℃という絶妙に過ごしやすい気温になったら、

ついにその時が来たのであった。

 

私は大して読書家でもないから、文章を読むのはそこまで早くない。

だから、時間を掛けてもいい、サンセットが過ぎて辺り一面が暗くなり、白かったはずのページが紺青を帯びて、活字の輪郭が崩れ始める

その時まで、ただ本を読み続けるということだ。

これはぜひ、あなたにも試してみてほしい。それはきっと、あなただけの時間になるはずだ。

 

その瞬間は、あなたが目撃する光景を構成している存在すべてが、

確実に、あなたのためだけに、動いている。

 

もうすぐ役目を終える夕方は、あなたが本を1ページでも多く読み進めることが出来るよう光の残滓を懸命に維持するだろう。

 

絶え間ない波のさざめき、コオロギや海鳥の声たちがあなたの泣き声を打ち消し、夕方に代わって訪れた夜は、あなたが泣いている顔とその事実に、優しく、慣れた手つきで濡羽色の毛布を掛ける。

 

砂浜はあなたがそこに居たことを、おぼろげながらも砂型に記憶しようと努める。

 

 

それも何と、出会って間もないあなたに対して、だ。

 

悩みと向き合うあなたに対して、これらの存在は、その責め苦を労い、旅の平穏無事を祈るようにして。慰めなどでは決してない、困難なひとりきりの苦悩と戦いとのすえに、あなたが何かを勝ち取るであろうことを祝福するように……

 

ああ、なんと美しく、厳粛で、豪奢な事実であろうか!

・朝の商店街、住宅街を歩く

これも、先ほど同様に新潟県への旅、上越市・直江津での体験である。

 

日曜朝8時の商店街は、まだ完全に起きてはいないようだった。

直江津駅の階段を、やや急ぎ足で駆け降りる制服姿の女子高生。

日曜日にすら制服を着て学校へ行くあの子は、そこらへんの大学生、

たとえば私なんかよりよっぽど勉強しているんじゃあないだろうか。

 

テニスのラケットバッグを背負った、眠そうな瞼をした男子中学生。

これから電車で練習か大会に向かうところだろうか。

 

駅前のロータリーにて客を待つタクシーの運転手たちは、田舎ならだいたい同じ光景だが、あいかわらず暇を持て余した様子だ。

駅内の構造を把握し終え、その空間に居る人々の観察を一通り済ませたら、そこを立ち去って商店街の方へ歩いていく。

 

歩道でお花に水をやるおばあさんと軽い挨拶を交わし、「継続だんご」の店が閉まっているのを横目に通り過ぎたり、途中に謎の神社や寺を見つけて寄り道してみたりもした。

 

ちょうど朝飯の時間だったからか、複数の家屋から様々な生活の様子を見聞きした。

 

テレビの音。普段テレビを専ら視聴しないためどこの局かは判らないが、クラシックの心地よい音楽と、ナレーターの、まるで私とは正反対な、しっとりと、重く響く良い声であった。

 

別の家では、キッチンで忙しなくチャカチャカと洗い物をする音。

通りに出て、洗濯物を干しているご婦人。

 

どこかに用事があって出かけるのだろう、早く支度しなさい!と促されている小さな2人の姉妹と、その声の主である母親。

それを後から追うように、祖父と思わしき、

尊敬されるべき年の取り方をしているような老紳士が、杖も必要としない軽快な足取りで玄関から出てきたのであった。

 

朝の商店街や住宅街というのは、これがあるからいいのだ。

 

「いや、当たり前の風景じゃないか。どこにでもある。」

 

と、あなたは思ったかもしれない。

 

しかし、それは絶対に違う。

 

人々が一日の活動を開始するその瞬間は―――

 

一見すれば、どこの都市においても営まれるありきたりな風景だと

掃いて捨て去られがちなその一連の動作は―――

 

当たり前にそこにあるようで、ほんとうは全く以って当たり前と呼んでいいものではない」ことを、実感させてくれる存在なのだ。

 

(もし気持ち悪いと思われたら悲しいので一応自己弁護しておくが、

むろん、上田でこんなことを意図的にはしない。

 

何か歩かなければならない用事にでも駆られない限り。

上田の天神住宅街や、三好町のあたりなんて歩いたことすらないのだ。お願いだから警察に通報しないでほしい。さぁ、その右手に持った子機をいったん置いて、文の続きを読もう。)

今まではずっと、それが当たり前だと思っていたのだ。

 

朝、決まった時間に起きて、歯を磨いて、朝ごはんを食べて、学校へ行くための支度をする。私が生まれ育った家庭では、大学に入学するまでほぼ毎日、私とその家族によってこれらが行われていた。あなたの家庭でも現在そうであるか、もしくはそうであっただろう。

 

この一連の動きは、一人暮らしをしていても確かに再現可能であるが、しかし絶対に不足している、補えないものがある。そう、家庭だ。

 

わたしはほんとうに両親のことを尊敬している。

 

今の時代、誰かと出会って、結婚して、子供をはぐくんで、

家庭を設けるなんていうのは、当たり前のことでは決してないからだ。

 

私は「子供がいない夫婦は幸せじゃない」という、

旧石器時代に流行したらしい標語には全く賛同しないし、

同性カップルが1つの家庭を作るのであれば、法的にそれが認められるべきだと強く思っている。

そして、ひとりで生きていくことを選択した人に対して、その人が

自身をどう標榜していようとも、後ろ指をさすようなことはしない

心に決めている。

 

ただ、私が尊敬する両親と

世に生きる数多くのお母さんとお父さんは、凄すぎるのだ。

 

汗水たらして働いてお金を稼いで、それを自分以外の家族のために

使い、ひとつの家庭を、家族を守っていくというのは、

決して当たり前と呼ぶことは許されないだろう。

 

私からすればもう、後方伸身宙返り4回ひねり(シライ/グエン)くらいの、いわばF難度の所業なのだ。私は側転すらも出来ない。

 

(突然だが、)私の夢は「結婚して幸せな家庭をつくること」だから、

旅先で朝の商店街・住宅街を歩くという行為は、私にその大きな、

なんとも大きすぎるような夢への憧れをいっそう強くさせると共に、

現状と夢との間に開く距離をより大きく感じさせる。

 

それでまた少し精神が削れるのであるが、それはそれでよい。

 

そこで感じる痛みもまた、わたしのつらさ、悩みと正面から向き合っていることの証明であったのだから。

にゃんと、ここまででおそらく1万字を超えてきている。

え、まだあるの~?そう、まだあるのだ。あと1/3だ。ずく出そう。

 

「さっきからお前の話ばかりだ。

 旅に関する提案が殆どないじゃないか、時間を返せ」

なんていう声が聞こえてきそうだが、これには理由があるのだ。

 

というのも、「一人旅 やり方」なるワードをググってしまえば、

たいていどのサイトにも同じことが書いてあるからだ。

 

私は私の文章に対して一定のオリジナリティ、すなわち

「わたしであること」を貫くことで、文章に個性を持たせようとしているだけだ。それと、私は私が書きたいことしか書けない。

そういうわけだから、勘弁してほしい。

とはいえ、ここまで読んでくれたあなたは、きっと私の事をそれなりによく知る人物のはずだ。10000字の文章を読むということは、名だたる作家たちの文章においても容易なことではない。

ましてや文学部や哲学科生でもない、ライターでもない市井の大学生...

 

すなわち一名の“クソガキが書いた

となれば、その苦しみは倍加するであろう。

 

それでもここまで読んでくれたあなたは、

私にとってとても大切な、かけがえのない存在であるに違いない。

あなたのような人がいるおかげで、私はいつも「もう少し生きていてもいいんだな」と思えるのだ。あなたの言葉は、わたしにとって

きっとほんものであり続けるであろう。

 

口を開けば出まかせばかりを垂らすこのわたしが、

本気で書いていることをどうか信じてほしい。

 

あなたには、ほんとうに救われているのだ。

 

あなたのような人が

こんなにも弱く頼りないわたしの人生に登場してくれたという事実が、

暗い部屋でひとりこの文章をPCに向かって打ち続けることを奮起させているのだ。

 

あなたが居なければ、この文章は存在するはずもなかったのだ。

 

誰の目にも触れられず、私の中で朽ちて忘れ去られるのを待つ

粗大ごみになっていたに違いない。

 

この8月と9月は、あなたが居たから生きていられたのだ。

 

 

一方で、この文章を20秒くらいサッと目を通したところで

「なんやこいつキショイなほんま」と一笑に付してブラウザバックした人も居るだろうし、そうでなくても2000字くらいで

「なっが、もうええわトイレ行こ」とサッと閉じた人も居るだろう。

 

それが大多数であって、それが当たり前なのだ。

そんなことは理解している。私は自分自身の文章に魅力があるとは

感じていないし、それほど役立つ内容を書いているつもりもない。

 

こんなダメな文章を、私の顔や性格を知っている人にも読まれる可能性があるだなんて、とっても恥ずかしい。恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい……恥ずか死にそうだ。

 

 

……とは、実のところ、全く思っていない。

 

 

わたしは、この文章を誰かに評価されたいだとか、不特定多数の知らない人にまで役に立つことを発信したいだとか、そういった崇高な精神は残念ながら持ち合わせていない。

 

この文章は、わたしのためだけに書かれたものだ。

 

しかし、わたしとあなた、2人だけのものだ。

 

この文章を読んで、少しでもあなたが幸せになったのであれば、

それはすなわち私にとっても幸せなのだ。

 

あなたがあなたのままであり、なおかつ幸せであること

わたしにとっての幸せだ。

 

これはすなわち、突き詰めれば、わたしは、この文章を、わたし自身のためだけに書いたということだ。単なるエゴイズム、自己満足だ。

だから、そこに恥ずかしさなど存在しようもない。

 

私がわたしのためだけに書いた文章は、

わたしと、それを読んでくれたあなただけのものだ。

 

どうか、どうかもう少しだけ、わたしの文章を読むことに、

あなたの貴重な時間を割いてほしい。

ついに、この長いエッセイの締めくくりだ。

4.悩めるあなただけのひとり旅を

"誰ひとりきみの代わりはいないけど、

上位互換が出回っている"

 

これは、宇野なずきさんの歌集『最初からやり直してください』に

載っているフレーズだ。Twitterでバズり、ずいぶんと話題になった。

覚えている人は少ないだろうが。

 

そう、たしかにわたしやあなたの代わりはいないが、より有能な人や、もっとうまくやれる人は必ずいる。

 

例えば、私はアルバイトで学習塾の先生をしている。

 

中高生に数学や英語を教えているのだが、私よりもそれらを

操ることに長け、教えることに優れた人材は、他にいくらでもいる。

 

そんな人を実際に親交がある人の中で、少なくとも職場の中に2人、

外に2人も知っている。きっと、彼ら彼女らは、私が土下座してお願いでもすれば、きっとうまくやってくれるだろう。たぶん。

 

世の中には、燦燦たる輝きを放つオリジナリティを

持つ人が数多く居る。

 

そういう人はよく目立つから、余計に自分の陳腐さが際立つ。

それを実感した瞬間は、決して表には出さないけれど、とてもつらいのだ。自分の代わりなんていないと分かっていても、そう言ってくれる人が居たとしても、確実に揺らいでしまう。

 

こういった経験がある人は多いはずだ、というか、無い訳がない。

 

さて、ここでハッキリ、宇野さんの言葉 

“誰ひとりきみの代わりはいないけど”

を正面切って否定させてもらうと、

 

他人からすれば、或いは世界からすれば、

 

わたしやあなたの代わりは別にいくらでもいる。

 

さて、他人とは、世界とは、誰の事だろうか?

 

要するに、あなた以外の誰かだ

 

テレビに映る有名人や、街や学校ですれ違うだけの人々は当たり前の

ように他人だ。だが悲しいことに、あなたが尊敬する人も、恋する人も、友達も、家族でさえも、突き詰めれば、けっきょくは、あなた以外の誰かだ。わたしとあなたも、他人同士だ。

 

 

では、あなたにとってのあなたはどうだろうか?

 

今度は目を閉じて、思い出してみよう。

 

あなたが今まで味わってきた喜怒哀楽と、歩んできた歴史、思い出。

 

それらを蓄積していくうちに年を重ねていき、変化していく容姿。

 

そして、あなたの心の中にある、悩み。

 

 

 

 

 

 

 

―――さて、どうだっただろうか?とても心地の良い時間ではなかったかもしれないが、ここでひとつ、確かなことが言えるだろう。

 

 

あなたにとって、あなたは、あなたしかいない。

 

無論、わたしにとっても。

 

「世界にはあなたの上位互換がたくさんいる」だとか、

「代わりはいくらでもいる」というのは、普遍的で残念な事実だ。

 

ただ、ここで一歩立ち止まって、この2つの事実について

少し考えてみよう。

 

「互換」とは、デジタル大辞泉によれば、

互いに取りかえること。また、取りかえのきくこと」だ。

 

「代わり」は、大辞林第3版によると、

他の人や物の代理をすること、もの」である。

 

ここで、「互い」「他の人や物という表現から、

一つ分かることがあるのではないか?

 

この2つの極めて残酷な事実は、気づいただろうか、

あるたったひとつの視座を前提にして成り立っている。

 

それは、「そこに、あなた以外の誰かが存在する」ということだ。

 

優劣だとか、上位・下位互換だとかいうワードがよく聞かれるのは、

人間が社会に属する限り、「他人と自分を比較する」ことを強制されるからであろう。

 

故に、それが私たちの精神を酷く傷つけることは、経験則からも理解していたとしても、絶対に避けることは出来ない。必然なことだ。

 

それは、変えようのない、生まれ持ってしまった習慣で、人類のDNAに刻み込まれているに違いない。

 

それでも、だ。

 

生まれつきの習慣どおりに自分と他人を比較してしまい、

劣っているだの、あの人の方が適任だということを

自覚してしまった時に、自らに向かって問うてみてほしい。

 

なぜ、あなたではない他の誰かの存在が、

あなた自身を否定するための材料たりうるのか?

 

なぜ、あなたがあなたであることを、

他の誰かが否定することが出来ようか?

 

そして、一体全体なぜ、

“あなたよりも有能で、出来る誰か”の存在を、

あなたを否定するために、

他でもないあなた自身が用いるのだろうか?

 

何度でも言おう、

「あなたは、あなたにとって、あなたしかいない」のだ。

 

その一番の証拠たりえるものは、実に簡単なことだ。

 

他者からすれば、あなたが死んでしまったとしても

世界は存在し続ける。

 

 

しかし、あなた自身の世界は、

あなたが愛し、憎んだ世界は、

あなたが死んだ瞬間に、暗転し、終わるのだ。

ああ、なんと笑ってしまうほどに簡単で、

泣きそうになるくらい残酷な事実か!

 

楽しいとき、うまく人生の流れに乗っているときは、自分が進む航路を自分で決めることが出来るということに生の歓びを見出せる。

明日の朝が来ることが楽しみで仕方ない。

夜なんて必要なくて、早く明日の朝を迎えに行きたくなる。

 

しかしながら、どうしようもなく悲しく、つらいとき、自分が今人生のどん底にあり、この世で最も不幸な人間の一人だと悲観するとき。

 

あなたは全てを放り出したくなり、あるいは、もういいや、ずっと夜でよい、明日の朝など来るなと諦めてしまうことがあるかもしれない。

 

非情にも、そんな時ですら、あなたはあなたの世界をどうにかしなければならぬ!この先に進む方向を決める手綱を握らされているのだ!

ああ、なんとむごい仕打ちか!

 

ただでさえ、地獄のどん底にいるような状況なのに!

あなたはあなたの世界を決定する義務を負っているのだ!

こんなのは三重苦、四重苦だ!

 

 さて、こんなとき、あなたならどうするか?

 

ここまで苦しんだあなたを救ってくれる誰かを、声を大にして

求めるだろうか?それとも、蜘蛛の糸が垂らされるのを、ひざをついてただ待つか?

 

それとも、すべてをあきらめてしまい

自らの生を放棄することを選ぶだろうか?

 

 私も、そんなに苦しんでいるあなたを救ってあげたい気持ちは山々だ。しかし私は、あなたの家族でも、恋人でも、師匠でも、はたまた

お金配りおじさんもとい前澤社長でも、ローランド様でもないから、

通り一遍の言葉を送ることしかできない。

 

ただ、最後のひとつ、自らの生を放棄してしまうことに関して、だ。

 

「そんなことしたらもったいない!」

 

 

希望を捨てるな!

あなたが一生懸命にやっていれば、必ず誰かがそれを見ている!

 

この先何十年と続くかもしれない人生を、こんなところで、あなた自らの手で幕を下ろしてしまうだなんて!

 

どんなにつらくとも、生きていれば、必ずいいことはあるはずだ!

 

―――はて、少しガッカリしただろうか?

 

どこかの本や物語に書いてあるのと同じ、下手したら月刊コロコロコミックにすら書いてありそうな、情熱的、かつ直情的なこの文章に対して。

 

 

安心してほしい。これは、私の考えではない。

こんなことは1μmmたりとも思っていない。

私は、そんなに強い人ではない。弱いのだ。

 

正しくは、こうだ。

 

「そんなことしたらもったいない!」

 

あなたが今苦しんでいる状況は

他の誰とも比べようのないその悩みは

あなたのだけのものなのだ!

 

 

苦しんでいるということは、悩みから逃げることをせず、

それに正面からでなくとも、あなたなりに向き合おうとしている

何よりの証左だ!

 

 

誇るべきことだ! 

あなたは今、りっぱに戦っているではないか!

 

戦っているあなたは、何よりも綺麗で、美しいはずだ!

 

 

その様子をみすぼらしいだとか、情けないだとか言うような

無数の透明な声に耳を傾けるのか!

 

そんなものよりも、どうか、どうか、私のこの声を聞いてくれ!

 

何度でも言おう、戦っているあなたは美しい!

あなたは、立派にやっているのだ!

 

その戦いの先に、如何なる結果が待ち受けていようとも!

 

勝利して手にしたものがあれども

敗北のうちに失ったものが数多くとも

 

あなたが戦ったという事実こそが、

あなたが勝ち取った唯一の産物で

あなたの人生、あなただけの世界への贈り物なのだ!

 

それさえあれば、あなたはどこまでも歩いて行けるはずだ!

 

どんな勝利も栄光も、無傷のうちでは済まされないだろうが

どんな挫折も敗北も、無駄ではないのだ!

 

他人と比べることなんて絶対に出来ない、あなただけの悩みと

戦ったあなたが得る物は、あなただけの宝物だ!

 

そして、戦いから得た物と一緒に、あなたはあなただけの世界を、

あなたにとってあなただけの人生を歩いていくのだ!

 

なんと素敵なことだろうか!

 

どうだろうか、生きて、この甘美なる喜びを!

あなただけの世界を味わうことを、もう少しだけ続けて見るのは!

 

今は少し休んでもいい。道を見失ってもいい。

後ろ向きに歩いてもいい。ひとり涙を流してもいい。

むりやり生きようとなんてしなくてもいいから。

だから、どうか、あなたにはあなたのままでいてほしい。

 

 

―――熱くなってしまって申し訳ないが、このクソ長いエッセイで

言いたかったこと......

 

今まで読んでくれたどこかのあなたに、

あなただけに伝えたかったのは、こういうことだ。

 

この8月と9月は、本当に苦しかった。

ここでは書けないような悩みを抱え、何回も一人旅に出ていた。

 

ただ、わたしは、この文章を書くことで、少しでも前に進みたかった。

 

できるならば、この文章を読んでいる、どこの誰かも分からない

あなたの人生が、少しでも明るくなるような文章を書きたかった。

 

誰かの希望になりたかった。

誰かがつらい時のセーフティーネットに、なりたかったのだ。

 

何度でも言おう、

 

あなたにとってあなたは、あなたしかいない。

 

わたしにとってわたしは、わたししかいない。

 

どうか、あなたにとって、この世界で1人しかいないあなたを、

もっといたわって、大事にして欲しい。

 

その一つの手段としてこのエッセイで紹介したのが、

私がヘラった時に行っているような一人旅だったのだ。

 

もしあなたが今、もしくは将来、メンタルがヘラってしまった時が来たら、このエッセイのことを思い出してほしい。

 

そして願わくば、ここに書かれたような一人旅でなくてもいいから、

自らの悩みと正面に向き合うためのひとり旅に、出て欲しい。

(旅先では、何よりも死なないことが一番重要だ。)

 

こんなに長いエッセイを、おそらく21000字くらいあるであろう、

卒論並みにクソ長くつまらないエッセイを読んでくれたあなたには、

心からの感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。

 

幸せの形は人それぞれと言うけれど―――

 

あなたの人生が、あなたにとって少しでも幸せでありますように。

あなたがあなたのままで歩いていけますように。

 

遠くの地から、祈っています。それでは。

 

2020年9月25日 03:17  上田市のアパートの自室から 小川 

 

<あとがき>

 

ほんとうに、長い闘いとなりましたね。

お疲れ様でした。

 

 

このエッセイに関してコメントをもらえると、泣いて喜びます。

っていうか、実はこれを書きながらもう泣いているんですけど。

 

良かったら、ツイッターでシェアしてください。しなくてもいいです。

 

でもしてくれたらすごくよろこびます。

 

 

―――マジで、最後まで読めた人いるの?

 

(3年生の)副部長、読んでくれてありがとね。

感想求められたらそりゃ最後まで読むだろうけどさ。

 

あんたと学生の時に会えてホントに良かったよ。ありがとう。

めんどくさいと思うけど、これからもいろいろとよろしくね!

 

副部長以外でも、最後まで読んでくれた人。スゴイ!!

ほんとうにありがとう!ひとりも居ないかもしれないけれど、

もしいるなら、結婚したいくらいうれしい!あくまでも比喩だけど!

 

どうしようもなく長い人生だけど

わたしはわたしなりに歩いていくから!

あなたもあなたのままで歩いて行ってくれ!じゃあ、またね!!

 

あ、あと、Noteっていうブログ的なやつ?始めたから、死ぬほど暇な時に見てね!わたしが日々感じたり見てしまったものだったり、小川流の人生哲学について書くよ!私は感じたことを文章にしないと生きていけない人だと最近になって自覚したから、ゴミクズみたいな文章だけど、死ぬほど暇だったら読んでね!!

 

https://note.com/ogawa_dosukoi36

 

 

ってことで、ばいなら~!

<コメントへの返信>

>>PN とけいのスペシャリスト さん

 

良かっただなんて、もったいないお言葉...!!

私が前に進むためだけに書いた文章なのに...(´;ω;`)

 

少しでもあなたの役に立てたなら、うれしいです。

この文章はあなたのものなので、辛くなった時とかに見返してもらえると、もっとうれしいです。あなたの人生の、ほんの少しでも

支えになれたのなら、きっと私はそのために8月9月を生きていたのでしょう。もう少しだけ生きていてもいいかなと思いました。

ありがとう。

 

あなたも、誰かが生きる理由に、なっています。

少なくとも、私の生きる理由には、確実に。

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